株式会社 山家工務店
株式会社 山家工務店
Story
はじめまして!
「あっ、優しそうな人だな。この人だったらいいなぁ~」と言われる、とっても親身な工務店の山家英富(やんべ ひでとみ)です。
「ああ、やっぱり山家さんに来てもらって良かった」と家族が“笑顔”になることが、わたしのよろこびです。そのために、「いつも私の思っていることを、うまくキャッチしてくれてうれしい」と言われるように、心がけていきます。
「おたくのお父さんが丁寧に作ってくれたから、この間の地震でも、全然大丈夫だった」
東日本大震災の後、父が建てたお宅のところに行くと、決まって、このように言われました。
父は、6人兄妹の次男。家が貧しかったので、中学卒業後、親が探してきた大工の棟梁のところに住み込みで入りました。父は勉強ができたので、学校の先生から「学校に行かせたら?」と言われ、就職することを惜しまれていました。
今日まで、父は、大工一筋。誰にも負けない勉強家です。社寺仏閣の本を買っては、独学で勉強。家を作るときは、手間ひまをかける。お客さんの思っている以上のことをやろうとしていました。
幼少のころから、父は、わたしによくこのような話をしてくれました。
「館は、人格をあらわす。
だから、お客さんが建てる家も、
人生をかけてつくるお城のようなもんだ。
立派に建てるのが、大工の親心」
わたしが社長になってから、お客さんのところに行くと、「ああして欲しい、こうして欲しい、というと、あんたのお父さんは、ずい分勉強して、作ってくれたんだよ」と、にこやかに話してくれるのです。
また、幼少のころから、父は、「おれの位牌(いはい)持ちだから」と、わたしのことを、会う人会う人に紹介していました。小学校に入るころになると、わたしは、「家を継いで、親の面倒をみないといけないのかな」と思うようになりました
一方で、父は、自宅にお客さんを呼んで、一緒にお酒を飲むことが好きでした。
"8時だョ!全員集合"のネタなどで、お客さんを笑わせるのが上手。冗談を言ってお客さんを笑わすだけでなく、自分も大笑い。
そんな父の姿を見て育った私は、小学4年生のとき、学校の劇の台本を自分で作りました。父と同じお笑い劇です。
小学校のとき、周りから推薦されていつも学級委員に選ばれていました。みんなを引っ張って、頼られる存在でした。
小学校6年のときに、みんなを集めて、野球チームを作りました。わたしが、ポジションから打順まで決めて、チームを取り仕切っていました。
ポジションは、エースで4番。
わたしがあこがれていたのが、王貞治。カーンという音とともに、ホームランを打つ。毎日ホームランを打っている感じでした。
王選手がホームランを打つたびに、球場の観客も歓喜。テレビを見ているわたしも一緒に歓喜する瞬間が、たまらなかったです。
小学生になると、わたしは、父の作業場によく出入りしていました。小学6年のとき、ソリを作るのに、ちょうどいい寸法のベニアを見つけました。表がケヤキで、裏がベニヤ。
「かっこいいなぁ」と思い、ベニヤでソリを作りました。父には、裏面のベニヤだけ見せました。「ずいぶん、いいもの作ったなぁ」と父から言われると、誇らしく思ったものです。
ところが、あとで、大変高価なケヤキの木を使ったと知って、父からこっぴどく怒られました。
ある日、父は、「一級建築士って言うのは、すごいんだ。この町には、一人しかいない」と話してくれました。
わたしは、父の言葉を聞いて、こう言いました。
「じゃあ、おれ、一級建築士取る!
一級建築士を取るまで、結婚しない」
小学6年生のときのことです。
小学6年のころから、朝6時に起きて、父の仕事の手伝いをしていました。木を加工するのに最後の仕上げの工程です。父一人では、木を固定できないので、わたしが端を持って、加工の手伝いをしていました。
朝起きるとき、「父ちゃん、仕事してっぞ」という母の声が、いやでした。「仕事しなければいけないんだぞ!」と言われているようだったのです。周りは寝ているのになぁ~と思っても、言えない自分がいました。
中学に入ったら、大好きな野球部に入るつもりでいました。ところが、母から「野球はきびしいからやめろ」と言われてしまいました。
わたしは、やりたいけど、しょうがいない。親のいうことは、聞くもんだと思い、仕方なく、卓球部に入りました。
中学1年から3年まで、小学校のときのように、みんなに選ばれて学級委員をやっていました。3年になるとき、担任の先生から「山家、生徒会長やれ」と言われました。
その瞬間、考える間もなく、「オレは、絶対いやだ!」と口にしていました。
小学校のころからずっと、「学級委員をやるもんだ」といううっぷんがたまっていたのです。いつも、人の意思で決められてきたことに、うんざりしていたのです。
高校は、父のすすめで地元の工業高校に進学しました。
その高校の陸上部の顧問の先生は、短距離の日本記録保持者でした。一流の世界を味わいたい、一流の中に入って自分も極みを目指してみたい、そんな強い思いで、陸上部に入りました。
部活だけは、自分の意思で、陸上部を選びました。それまで、親がすすめる通り生きてきましたが、初めて自分の意志で選択しました。
1年秋の新人戦。200M準決勝まで進みました。このチャンスをものにしたい!という思いでした。実は、親に買ってと言えず、練習用のスパイクで本番も走っていました。せっかくの準決勝だから、先輩からもらったスパイクで走ったのです。
ところが、走っている最中に脱げそうになる、変な走りになってしまいました。
走り終わった途端、「自分の走りできなかったやぁ!」という大声をあげました。もっと行けたのに、というもどかしさと、やってしまった!という悔しさ。
その後盲腸になり、2年では思うような走りもできないまんま。3年の夏に高校総体も終わり、「もう走っている場合じゃないぞ」と思い、父の仕事を手伝いました。
「おれには、陸上の才能、なかったな...」
わたしは、大学で勉強したい気持ちはありましたが、高校を出たら働こうと思っていました。ところが、父が「行けるんなら、大学行け」と言ってくれたのです。まさか行けると思わなかったので、「大学に行けるんだ」と思うとうれしくなりました。父は進学したかったけど行けなかったのです。自分の経験からわたしに大学進学をすすめてくれた父に感謝しました。
大学を卒業するとき、考えたこと。将来、長男なので親の面倒を見るために、近くにいよう。いずれは、父の仕事を継ぐんだろうな。でも、一度はよその飯を食べないとわからないので、実家の近くの会社に就職しようということでした。
本音のところは、父の仕事っぷりを見ていて、「仕事取ってくるの、大変そうだなぁ」と感じ、やりたくないという気持ちでした。
望んでいた通り、実家近くの会社に入社。就職するときも、その後も、父からは、ずっとこう言われ続けました。
「就職って、人に使われに行くようなもんだ。
自分で思うようにやった方がいいんだ」
入社3年目に、小学6年のときの目標、一級建築士に合格。母から会社に「受かったよ」という電話がありました。「やった!これで結婚できるな」と思いました。翌年、次の目標だった結婚をしました。
入社したときから、「実家の工務店があるから、どうせすぐやめるんだろう」と会社の人には思われていました。それでも、与えられた部署で、ほかの人以上の仕事をしました。
その甲斐あって、上の人に評価され、会社にロボットを導入する一大イベント「10億円プロジェクト」のメンバーに選ばれました。会社の中だけでなく、ロボットを製造する名だたる大手企業の人とも一緒に仕事をするようになりました。
大手企業の優秀な方と一緒に仕事をすることで、非常に刺激になりました。その過程で、時間をかけて撮影した会社案内のビデオを編集する作業がとても面白かったです。
「これが、サラリーマンの仕事だなぁ」
入社13年目、工事部門に配属されていたときのことです。営業からいきなり電話がかかってきました。「いま、発注先から電話が入っているので、とにかく、このように答えてくれ」という話でした。わたしは、反論する余裕もなかったので、営業から言われた通りの回答をしました。
わたしは一級建築士の資格を持っているので、現場監理の責任者として登録されていたのです。その責任者として、発注先に回答させられたのです。
発注先に回答した内容は、現実とは異なる、うそでした。さらに、その尻ぬぐいをさせられたのです。
電話が終わると、わたしは、上司に怒りを込めて言いました。
「冗談じゃないよ!こんなアホなこと、やってらんないよ。もう、やってられません」
みんなにも聞こえるような声だったため、上司も負けじと、周りに聞こえるように言いました。
「山家くん、会社やめるってよ」
10億円プロジェクトが終わると、急に会社の中の仕事がつまらなくなっていました。この2年ほどは、カミさんに「会社をやめる」「やめる」とずっと言っていたのです。
そんな矢先の営業の尻ぬぐいと上司の言葉に、「もう、ここまでだ」と思いました。2ケ月後、わたしは、会社を辞めました。
「おやじが言っていた『就職って、人に使われに行くようなもんだ』という言葉は、こういうことだったのか...」
35歳のとき、父の会社に入りました。父は、よろこんでくれましたが、あえて言葉にすることは、ありませんでした。
わたしは、最初、大工仕事をしていました。自分でできることは、なんでも自分でやろうとしました。そんなわたしを見て、父から「おまえの仕事は、そんなんじゃない!自分のやるべきことをやれ!」と言われました。
「やっぱり、そうか...」
それからは、父がよく話していた、家を建てそうな情報が入ったところに行くようにしました。行ったところで、すぐには決まりません。
この仕事はまだよくわからないので、「少しずつ聞いていこう、仲よくなるしかないかぁ」そう考えて、お客さんのところに行くようにしました。
すると少しずつ仕事が決まるようになりました。ある年配の方が、新築祝いのとき、「最初、仕事の話を全然しなかったねぇ~(笑)」と話してくれました。その方は、若い時トップセールスマンだったので、とてもうれしかったです。
父の職場にはいろんな人が出入りしていました。小さいときから、いろんな人を見てきました。この人はどういう人なのか、わかるくらい人を見る目を鍛えられました。そのおかげで、仕事も着実に増えてきました。
42歳のとき、数年前から再会するようになった高校の同級生から電話がかかってきました。「隣の家が耐震の工事をしているので、見てくれないか?うちも建て直さないとだめかもしれないんだ」と。
わたしは、「不安なことがあったら見るよ」と言って、同級生の家に行きました。いろいろ調査した後、同級生は、家も古いし心配なので、「建て直そうかな。図面もあるので、今度持って行くから」と言ってわかれました。
同級生と打合せの日は、カミさんの実家の夏祭りの日、お義父さんと飲むことが楽しみ。カミさんと子どもたちも、わたしと一緒に行くことを毎年楽しみにしています。
「今日は、同級生と会うから、みんなで行っててくれ」とカミさんに言って、一人家にいました。
待てど暮らせど、電話はかかってこない。おかしいぞ、高校のときも時々うそついていたけど、電話するって言っていたし...
21時すぎに、しびれを切らしてわたしから電話をすると、「今、病院でちょっとだめなんだ」とだけ言って、電話を切られました。
「裏切られた!だめだこりゃ。こいつ信じられないぞ。
こういうときに、こんな逃げ方するか。
こっちが、 こんなに親身になっているのに...」
夜遅く、子どもと一緒に帰ってきたカミさんが、「実家で、なんで来ないの?って言ってたよ」という言葉も上の空。
その日からです。
「もしかして、自分は、だめなんじゃないか...
もしかして、自分は、選ばれないんじゃないか...
また、ゲタを外されるんじゃないか...」
そんな不安に襲われるようになったのです。それまでは、「おれはできる」としか思ってこなかったのです。
いままでは、おれは人の気持ちがわかるもんだと思っていたのが、まったく人の気持ちが、わからなくなりました。
この不安に耐えきれなくなり、この気持ちをある知人に話しました。人に話すことで、一時的に気持ちは落ち着くことはできます。
あるとき、ふと気がついたのです。
「自分は、これだけやったのに、なんで自分を選んでくれないのか?」
と自分本位で考えていたのではないか?
「もしかしたら、同級生も奥さんに反対されて、困っていたのかもしれない」そういう相手の立場に立って考えていなかったのではないか?」
そう考えたとき、相手の気持ちや考えを確認するのがこわい自分が見えてきました。
これだけ親身なんだから、わかってくれるもんだと期待していた。
そして、相手に確認するのが、こわいから、過剰に相手に期待していた。
そうなんです。わたしには、人の気持ちを確認する”勇気”が欠けていたのです。
そこから、わたしは、【勇気】を使命と掲げることにしました。
【勇気】を使命に掲げることで、お客さんとの関係にも変化があらわれました。
あるとき、二世帯で建て直そうという家の80代のおばあちゃんが、こう言うのです。
「ここは、じいちゃんと建てた家だから、建て直すのは、おらが死んでからにしてけろ」
わたしは、勇気を持って言いました。
「おれ、ただ家を建てる人間に見えっがぃ?
おれ、おばあちゃんが苦労してきたこと、わかっているよ。
ばあちゃんがしあわせになっがら、建てた方いいよ」
おばあちゃんは、黙ってうなづいてくれたので、「ばあちゃん、いいかい?」と言いました。
49歳のとき、父の代からの気心知れたお客さんから相談を受けました。奥さんは、いろいろな要望を出してくれました。たとえば、リビングは、勾配天井にしたいとか。
わたしは、CADでイメージ図を作り、こんな感じの吹き抜けにしてはどうか?と提案しました。さらに、東から光が射すので、リビング上部をステンドグラスにして、光を通過させたらいいのではないか、というイメージがわいてきたのです。
さらに、話を聞いていくと、奥さんは、「グラスアートをやっているんですよ」と話してくれたのです。そこで、奥さんが作ったグラスアートをステンドグラスの代わりに、入れることになりました。
家の建て直しが完了したとき、奥さんが笑顔で言ってくれた言葉が、とてもうれしかったのです。
「いつも私の思っていることを、すぐキャッチしてくれたので、すごく良かったな~って(笑)」
「私がうまく言葉にできないことを、山家さんはイメージ化してくれたっていうのかな」
「一年かけて作ったグラスアートを、自分の家に飾れたというのが、すごくうれしかったです」
ご主人も、「震災があって気持ちが沈んでいたけど、この家で、第二の人生を送れるようにしていただいて、本当にうれしいです」とよろこんでいただけました。
さらに、【勇気】を使命と掲げることで、完成見学会も積極的に開催するようになりました。すでに建てたお客さんが、「知り合いを連れていくから」と紹介してくれることで、新しいお客さんも増えていきました。
「好きなものに囲まれているので、心がときめきます。どこにいても」
「相談しながらできたことだね。何回も、家に来てもらって。それこそね、お茶飲みしながら(笑)」
「ソウスケが1歳のときにこの家に入り、家と共に成長させてもらって、今とても良いところで生活ができているなぁ、と」
このような言葉をいただくことで、あらためて、この仕事をやっていてよかったと思えるようになってきたのです。
これから家を建てよう、家を建て直そうと思っている方へ
「老後安心して住める家にしたいなぁ...」
「やっぱり大工さん選びが気になってて...」
「近所のおじさん的な感じで、気軽に話ができたらなぁ...」
このようなことが気になっている方が、「ああ、やっぱり山家さんに来てもらって良かった」と笑顔になっていただけたら、とてもうれしいです。
そのためにも、【勇気】を使命に掲げて行動していきます。
最後に、
父ちゃんへ、
小さいときは、厳しくもあり、こわいところもあったけど(笑)、お客さんが思っている以上のことをしてよろこばせるところ父ちゃんから受け継いだこと、感謝しています。
ありがとう。